なぜ世界遺産なのか
東アジアから、国家の仕組みを学んだ
6世紀末から8世紀初頭、 日本は中国大陸や朝鮮半島の国々と活発に交流していました。
そこで伝えられた政治制度や思想、宗教、建築・土木技術などを 日本はそのまま受け入れるのではなく、 自らの社会に合わせながら取り入れていきました。
日本という国を形づくっていった。
日本で、中央集権国家が生まれた
飛鳥の時代には有力豪族を中心とした政治から、 天皇を中心とする新しい国家の仕組みへと 大きな変化が起こりました。
そして藤原京では、宮殿を中心に計画的な都が築かれ、 政治や行政を一元的に行う中央集権国家の姿が 具体的な空間として現れました。
その大きな転換が、ここから始まった。
宮殿、寺院、古墳が語る国家の姿
飛鳥・藤原に残るのは、宮殿の跡だけではありません。 国家の中心となった宮殿、政治や思想を支えた寺院、 権力者の墓である古墳が一体となって残されています。
その配置や変化をたどることで、 政治の中心、仏教の役割、権力のあり方が どのように変化していったのかを見ることができます。
その一つひとつが、国家の変化を映している。
ここで生まれた国家の形は、後の日本へ
飛鳥から藤原へと発展した宮都では、 中国や朝鮮半島から受け入れた制度や文化が 日本独自の形へと整えられていきました。
その経験は、やがて平城京へと続く 日本の宮都や国家制度の基礎となります。 飛鳥・藤原は、後の日本につながる 国家の原型が生まれた場所なのです。
それは、その後の日本へ受け継がれていった。
構成資産
登録基準
世界遺産には、それぞれ「なぜ世界遺産なのか」を示す登録基準があります。 ここでは、飛鳥・藤原が、どの基準でその価値を認められているのかを見ていきます。
東アジアとの交流
中国・朝鮮半島との交流から生まれた、古代日本の国家と文化
飛鳥・藤原の宮都は、中国や朝鮮半島の政治・文化・技術を取り入れながら、 日本独自の都づくりと国家形成を進めた過程を伝えている。 宮殿や寺院、古墳の配置や技術には東アジアとの交流が反映され、 その後の奈良や京都の都づくりにも大きな影響を与えた。
古代国家の形成
中央集権国家へと向かう、古代の都づくりを伝える遺跡群
飛鳥から藤原へと続く二つの都は、律令を基盤とした中央集権国家が 形づくられていく過程を、宮殿・官衙、寺院、古墳の位置や構成から 今に伝えている。東アジアの都城を受け入れながら、日本の古代国家が 成立していく姿を示す貴重な証拠である。